siko
SOBO 28th Exhibition 菅俊一 / 指向性の原理を見に行ってきたので感想を。
具体的な展示の内容まで踏み込んだ内容なので、もしこれから見に行く人は見ないほうが良いかも。

事前のネットによる情報ではなかなか好評価だったのでとても楽しみにしていたのだが、結論から言うとあまりピンとこなかった。

ツイートはほとんど賞賛ばかりだったので、ぼくと同じような意見があったので少しホッとした。

展示の見方を強要される

作品「立方体の動き方」を見たときぼくはとても困惑した。
まさかこの線はモニタ上に置かれた立方体が動いた軌跡として見てほしいんじゃないだろうな、と感じたから。

テキストを見たら案の定その通りだったので他の作品を見るのに不安を感じてしまった。鑑賞者側が製作者の意図を想像してそれに乗っかってあげなきゃならない展示なんじゃなかろうかと。
 

作品「視線」を見てぼくの不安はさらに膨れ上がった。
このトボけた表情の「指向性くん(と仮に呼ぶ)」の視線の先にボールが配置されている。この展示の意図からすれば、「視線の先にボールがある」ということなのだろうが、この空間に足を踏み入れたときに先にボールが目に入ってしまっているので、ハナからこの「指向性くん」はこのボールに視線を向けるのね、と察してしまうのだ。視線によって動きが生じるのではなく、視線とボールという組み合わせが予め知らされていて、この例に沿って見てくださいというものだ。

ただ一つ、最初に目に入らない上部にあったボールに対しては視線で誘導されたのは確かだが、それまでのわかりやすい視線はそのためのネタ振り、伏線ということになる。ただそれは指向性の「原理」を示したというより、叙述トリック的な演出ではないのか。バイアスをかけさせる仕組みを用意しているということにならないか。

菅さんご本人もバイアスについては言及されているのでぼくはますます混乱している…。

もうひとつこの指向性くんの気になるところといえば鼻の表現だ。
<のように右に開いた不等号のようなかたちをしている。これは彼が向かって左側を向いていることを表している。正面を向いているのであれば^とかvのようなかたちでもよかったはず。視線云々の前にすでに方向性を示してしまっているのだ。もらったシールの顔は左を向いているのに目は右を向いているという不自然な表情。漫画やアニメ的なキャラは正面を向いている絵が少ないが、それにならった絵作りなのだろうか。漫画はデフォルメの仕方がお約束で成立している世界だ。そこを自覚した上での表現なのかまではわからなかった。

理屈と知覚と経験と

作品「文章を読む」の中のひとつ、文字間隔を調整することで読むスピード感をコントロールするというもの。これが全く腑に落ちなかった。文字間隔がほとんどない文章、これが一番早く読めると思ってしまったのだ。

ある程度文章を読むことに慣れた大人であれば、1字ずつ文字を追っかけて読むことはしない。文字のまとまりが単語や文章として頭に飛び込んできて一瞬にして理解する。たとえば「ありがとう」という言葉があったときに、この文字の塊ごと理解するはずだ。だから文字間隔を広げれば広げるほど文字の塊がバラバラにされ読みにくく理解しにくくなっていく。

範囲が限られたモニタというフィールドにおいて文字の間隔を広げれば、当然文中の文字数は少なくなるので読み終えるスピードが上がりそうだ、というのは理屈ではわかる。でもそうならないのだ。人が文を読むスピードは、言葉のまとまりをどう知覚するか、どれだけ文を読んできたかという経験によるところが大きい。この理屈と知覚と経験がゴッチャにせず、もう少し整理したほうがよかったのではないか。

 

テンポが・・・

あんまり焦って展示を見る必要はないと思うが、全体的に画面の切り替わりがとても遅くて「動き」を感じるどころではなかった。どうせ次の絵はこうなるんでしょ的な心理が働いてしまうので、どちらかというと答え合わせみたいな見方になってしまっていた。というか、もっとこちらの想定を裏切る「指向性の原理」が出てくるのでは?と期待していたのに予測の範囲内に収まってしまっていたことに少しがっかり。
 

作品の大前提に大きな矛盾

「動いていない情報から動きを見出すには、いくつかの条件を満たす必要がある」と書かれていたが、誤解を恐れずに言えば今回の作品はすべて後天的にぼくらが身に付けた知識やバイアスがなければ成立しないものだったのではないか。

多分この作品群は子供と大人で見方が大きく変わると思う。
大人は成長の過程で「こういう表現はこういうことを表したもの」みたいなものをたくさん詰め込まれてきている。それを前提とした作品なのだ。

ぼくたちは「矢印は方向を表しているもの」ということを学んで知っている。だから矢印を見せられて「動きです」と言われてもそりゃそうでしょ、としか言えないのだ。文字は左から右へ読むもの、上から下へ読むもの、と教え込まれたからそう視線を移動させる。それを「動きです」と言われても「まあそう教えられましたからねえ」としか言えないのだ。水は100度で沸騰して0度で凍るんですよスゴくないですか?いや、そう決めたんですよ。みたいな感じ。
 

まとめ:「原理」という言葉は適切なのか

原理という物々しい言葉が使われているので、アルキメデスの原理のような何物にも代えがたい法則なのかと思いきや、後天的にぼくらが身に着けた物の見方(バイアス)をなぞっている内容であった。むしろ「みんなこんなバイアスに支配されてますよ」という展示だったのかもしれない。だとすると「指向性の原理」ではなく「指向性のバイアス」というほうが適切だったように思う。
 

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